い草について

い草の歴史やい草ができるまで、織り方などをご紹介

■い草の歴史

「い草」には古代からつながる長い歴史があります。

●古代

古代の「い草」については、資料数は多くありませんが、タタミ表状の蓆(むしろ)が縄文弥生時代の遺跡から発見されています。この事から、この時代には藁(わら)や「い草」を使ったむしろが作られていたと推定されています。また、古代初期には莚(むしろ)や薦(こも)を座具に使っており、何枚かを縫い合わせて布で縁取りしたものを「畳(たたみ)」や「帖(じょう)」と呼んでいました。西暦600年頃の中国の正史「隋書 東夷伝」には「草を編みて薦(こも)となす、雑皮にて表を成り、縁るに文皮を以ってす」とあります。また「倭名人」には『太々美』(たたみ)の文字が見えます。

正倉院

「古事記」に倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の際、弟橘姫(わとたちばなのひめ)が入水のくだりに「海に入らんとするときに、菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を波のうえに敷きて、その上にくだりましき」とあり、また神武天皇の御歌にも「あし原のしけき小屋にすが畳いやさやしきて我二人ねじ」ともあります。 正倉院には聖武天皇と皇后が使用した畳(薄い筵にい草の表が張られ、縁かがりがされているもの)が残されています。


  

●平安時代

天神絵巻

平安時代になると建物の中で円座や置き畳が多く使われました。置き畳は人の席に当たる部分に敷き置かれました。この時代はフローリングの一部でのみ畳が使用されていました。 この当時の畳は厚みが加わるとともに大きさの規格化が進められました。延喜式では、階級により畳の大きさや縁の色が定められています。 この置き畳として使われている様子は絵巻物等に描かれています。


●室町~江戸

室町時代になると次第に小部屋が増え、畳を敷き詰める部屋が多くなりました。それに伴い、多種多様な畳が無くなり、敷居も床板より一段高くなりました。 桃山時代から江戸時代へとうつり草庵風茶室が発達し、茶道の発展に伴って数奇屋風書院造に変わりました。 炉の位置によって畳の敷き方が替わり、日本独特の正座が行われるようになったと言われています。 江戸時代に入ると、畳そのものが重要な建築物の要素として見なされるようになり、城や屋敷の改修工事を司る役職として畳奉行が任命される例も見られるようになりました。 庶民が使用できるようになったのは江戸時代中期以降。畳師・畳屋と呼ばれる人々が活躍し、畳干しする家々の光景があちこちで見られるようになりました。

い草の栽培・い草製品ができるまで

生産者の声

い草の魅力

「い草」は13%以上の水分を含むと折れにくくなり、また引っぱっても切れにくくなるので、しっかり編み込むことができます。しかし水分が抜けると「い草」のスポンジによってふわふわした感触が味わうことができ、花ござの風合いも増します。こんな自然素材は化学繊維ではけっしてマネができません。また、収穫した後1週間の天日干しで自然なセピア色の「い草」ができます。やっぱり自然な色合いを出すには天日干しが一番です。

「やっぱり国産のい草が一番!」

現在、中国からの安い「い草」製品が市場に出回っていますが、中国の「い草」の収穫は日本より早い6月初旬です。6月初旬では「い草」が十分に成長する前に刈り取るため、「い草」はモロく折れやすい傾向があります。一方、日本では6月下旬~7月初旬の「い草」が一番育ちきったフワフワの時に収穫するため、太く弾力のある「い草」ができます。

い草の基本は"根(ね)"にあり

「い草」は元がしっかりしていると上に伸びます。10月~11月の寒くなる時期に植え付けをし、1月~2月の地表での成長がストップしている間に根を張ります。5月~6月にかけての暖かくなる時期に一気に上に伸び、6月の梅雨時期に成長がピークになります。寒い時期には凍結で割れないように水や肥料を調整し、暑い時期にはまっすぐ伸びるよう網を調整したりと、日ごろから「い草」と対話し、ピークの成長期にフワフワのイ草が取れるように力を入れています。

もっといい品質を求めて

「い草」は花が咲くと成長が止まります。理想のイ草は花咲きが少なく、まっすぐ伸びる「ひのみどり」等の品種を導入し、効率的に良質の「い草」が取れるよう努力しています。また、収穫後の「い草」(粗イ)には早生まれの「い草」も遅生まれの「い草」も混ざっているため、中の葉緑素の濃度が違います。これを丹念に選別して色合いを統一し、自然素材の風合いを出しています。これからも「い草」にこだわり、価格に負けないモノづくりを目指して取り組んでいきたいと思います。

い草・竹 特集ページ

カイハラデニム×い草・竹特集
い草座布団特集
 

い草・竹・籐(ラタン)商品